米蔵から世界へ ~地域と人、人と人をつなぐものづくり~

子育てが後押しした「糸島生活」
自分らしいクリエイティブな在り方を考えたら、そこに行き着いた。

芥屋で行われるサンセットライブのための作品の制作風景

自身も美術作家であり、アートカンパニー「Studio kura」を運営する松崎さんは、糸島市二丈地区出身。広島の大学で美術を専攻した後、現代美術の街として名高いベルリンへ。絵を描いたり、ギャラリーを運営したりしながら生活を営んでいたが、2007年実家のある糸島へ帰郷し、「Studio kura」を立ち上げた。「Studio kura」の「kura」は、米蔵のこと。米農家だった実家で既に使われなくなっていた米蔵をギャラリーに見立てて、アーティスト・イン・レジデンスをスタートさせた。

ベルリンは、絵を描いて壁にかけておけば、勝手に売れていくような街。ギャラリーを運営したり、ヨーロッパ各地のアーティスト・イン・レジデンスに参加したりして、大学卒業後5年間くらいアートを暮らしの糧に生活していました。世界各国からアーティストが集まるベルリンで、“日本に行ってみたい”と話す友達は多かった。

ちょうど、レジデンスでいつも“お客さん”でいることに疲れていたタイミングでもあり、今度は受け入れる側に回ってみようと思ってつくったのが、アートカンパニー“Studio kura”です。

“構想やプランがあった訳ではなかった”と話す松崎さん。アートに浸る街・ベルリンから、田畑が広がるのどかな田舎・二丈へ。帰郷したきっかけは、自分の人生観を変えるある出来事があったからだそうだ。

ベルリンから一時的に帰国した時に、1年間運送会社のドライバーをしたことがあったんです。再度ベルリンに戻るお金を貯めるためだったんですが、その仕事が信じられないくらい忙しかった。朝6時に出社して、終電で帰れないような生活が毎日です。

会社の用意したホテルで寝泊まりする日々の中、湧き上がってきたのが、これまで積み重ねてきたことと、全く違う仕事でお金を稼いでいる自分へのジレンマ。

“お金が稼げて、体さえ元気だったらそれで良い”なんてことが、“仕事”であって良いはずがない。“今まで生きてきたことが役立つ仕事がしたい”と強く思いました。でも、そもそも、その思いが実現できる仕事がない。ないなら自分でつくるしかないと思ったんです。

古い米蔵が2つ鎮座する「Studio kura」

約10年ぶりに帰って来た息子が、米蔵でアートをやりたいと言う。両親の反応は「それって仕事になるの?」といった、反対とも賛成ともつかないものだった。具体的なビジョンもなければ、成功する見通しもつかない。それでも、ベルリン時代の知り合いが既にアーティストとして訪れており、スタジオは準備半ばで動き始めざるをえなかった。“糸島でアートをする”ということについて聞いてみると・・・

ドイツでは絵を描けば売れますが、日本で描いても日常的に売れることはまずありません。ベルリンにいた頃は、展覧会に向けてひたすら制作活動をし続けるような生活だったんですが、日本に帰ってきて環境が変わり、明らかに心境の変化があったんです。

こちらにいながらベルリン時代のように、キャンバスにひたすら向き合うような創作活動はピンとこなかった。土地が持つ力には逆らえないのだから、その環境に合わせたクリエイトをするべきだと思ったんですよね。現代アートだって、文脈があって初めて成り立つもの。誰も興味がないところでは、つくったり、発表する意味がない。糸島では、創作活動にとらわれず自分が思うアートをやりたいなと思ったんです。そう思うと、見慣れた田んぼの風景や空、人、食べ物、歴史・・・この土地を構成する全てが素材に見えてきました。留学生を受け入れるレジデンスとしても、ならではのものを活かしたほうが面白いんじゃないかと思いましたね。

蔵の中で行われたレジデンスアーティストの作品展示

最初は、何をやっても人が来なくて寂しかったです。徐々に認知されて、人が来てくれるようになりましたが、運営が軌道に乗ったのは最近のこと。結婚して子どもができたことをきっかけに、ミッションに近い感覚で“軌道に乗せた”んです(笑)。

糸島で新しいことを始めるメリットは、コストがあまりかからないこと。特に駆け出しの苦しかった頃は、生活費や家賃が安いことに助けられました。

田舎を拠点に仕事を始めるのは不便じゃないかと聞かれることもありますが、ネットで情報が得られる時代なのでそこまで不便さは感じませんね。あえて不便さを上げるなら、交通の便が悪いことくらいかな。営業に行くにしてもどこに行くにしても、特に二丈はまだ車がないと厳しいです。とは言っても、留学生に“空港から40分だよ”と伝えると、“近いね”と喜ばれます(笑)。

市場の有無を考えると、福岡とベルリンの差はあっても、福岡と二丈の差はありませんでした。自分が始めた仕事は、当時街中にも田舎にもないものだったので、立ち上げの苦労は、どこでも変わらなかったと思いますね。

現在、「Studio kura」は毎月2名の外国人留学生をコンスタントに迎える、全国的にも活発なレジデンス。美術教室としては、大人向け・子ども向け・電子工作の3つのクラスで、5人の教師と100人近い生徒を抱える。注目されるのは、「土地の素材を活かす」というテーマを反映したイベント「糸島芸農」。自然や伝統を素材に、アートを介して、人とつながっていく。糸島出身の松崎さんならではの試みだ。

地元の方とのミーティングを行う松崎さん(写真右から2番目)

地元からは10年離れていましたが、帰郷して再度土地や人に馴染んでいくのに、それほど時間はかかりませんでした。故郷ということがまず大きいですし、地元の友達や同級生も、割と田舎に残っていましたしね。サラリーマンになったり、農家を継いだりと職種は様々ですが、イベントなどで声をかけると、みんな自然と手伝ってくれます。

人と人とのつながりが強いのは田舎ならでは。日常からコミュニケーションが盛んだったり、地域ごとの慣習がいまだに残っていることが大きいと思います。

地元の人も地元以外の人も多くの人が関わった「糸島芸農」

慣習と言えば、糸島でいまだに残っているのが地域の消防団。自分が住んでいる地域は、普段は訓練が月1回。夏になると、大会に向けて毎日訓練があります。7月の終わりに開催される大会のために、6月終わりから毎日19時~22時くらいまで!

福岡の山笠みたいな感じですかね。仕事と折り合いがつかなくて、今年は行けませんでしたが、「糸島芸農」などのイベントで地域の人に助けてもらうことも多く、行けるなら行きたいと思っています。毎日は厳しいなあというのが正直なところですが(苦笑)。

最後に今後の展望について聞いてみた。

アートに関わる人で、作品はクリエイティブなのに生活の手立てはバイト、なんて話を良く聞きますが、そんな話は辻褄が合わないと思うんです。作品がクリエイティブなら、生き方もクリエイティブでいいじゃないかと。

ベルリンにいた頃は、絵を描いたり物をつくったりすることこそがクリエイティブだと思っていたんですが、日本に戻ってそれのみではないと思いました。アートは何かを伝えるツールでしかないのだから、形にこだわることがどうでも良くなってきたんですね。

つくることよりも、そこに至る思いや背景を大切にしたい。一人のつくり手だった自分の気づきをクリエイトしていくことで、アーティストとしてこんな生き方もあるんだなあと思ってもらえれば嬉しいです。

レジデンスなので、集まることによって起こる化学反応も楽しみたい。いろんな人たちのいろんな表現を介して、“蔵”から世界へ文化発信ができたらと思っています。

「Studio kura」の前に広がる田園風景

「Studio kura」の目の前に広がるのは田園風景。筑肥線の電車が緑を切り開くように滑って行く・・・。そんな日常の風景にも、アーティストを刺激する素材があふれている。

kuraでは、各国から集まったアーティストが表現を尽くす。その傍らで、地域の大人が筆をとったり、子どもが電子工作に没頭したり・・・。「いろんなものが融合して、面白い場所になれば」。みんなを見守る松崎さんの優しい眼差しには、未知数の楽しみが宿る。

プロフィール(2013年12月現在)

●松崎さん 30代半ば

●糸島移住歴 4年

●仕事 美術作家、アートカンパニーStudio kura運営

●これまでに住んだところ 福岡市→広島県→ベルリン→糸島市(二丈→前原)